トップ頁 > WEB連載 > WEB連載 “女子”の心得 > 第4回 女性の化粧は「もてなし」の一つ

伝統的共同体における女性の理想は、これまで述べてきたとおり、もてなす能力が高いことです。では、もてなす能力の中身とは、具体的にどのようなものでしょうか。
これは2つの面からいうことができるのではないかと思います。
1つ目は「心が深く豊かであること」。
2つ目は、「表現が美しいこと」。
「心が深く豊かであること」は、心の内側のことですね。それが外側に表れると、「表現が美しい」ということになります。ですから、この2つは表裏一体で、突き詰めると同じことを言い表しています。
女性に求められる「もてなし」の役割は、「総合マネジメント」だと申し上げました。共同体の一人ひとりを「総合マネジメント」するためには、他者の立場や心情を深く理解する能力がなければいけません。そして、一人ひとりが思っていること、感じていることを「気配」として繊細に感じ取り、それに対して的確に「気配り」をしていかなければいけません。そのような部分が、男性よりも女性がその本質として数段優れているところであり、日本社会では古来、女性がその能力を十全に生かしていくことが期待されてきたわけです。
実際に、女性はそのような能力が高いことはいうまでもありません。他人の思いを理解する能力は、明らかに男性よりも女性のほうが高い。それはまた、いろいろなかたちで「この人はこういう人だ」と見抜き、批評できる能力でもあります。
昔であれば、女性たちは男が見ていない井戸の周りで、いろいろと情報交換をしていました。現代の会社でも、よく女性社員が男性のいない給湯室で上司や同僚について批評し合ったりするという話を聞きます。女子学生の友人たちや、地域のママ友達が、それぞれ喫茶店で集まって、さまざまな人間関係の品定めといいますか、噂話といいますか、そういう会話に花を咲かせる光景も日常茶飯事でしょう。
えてして、そのような場では鋭い人間観察眼が光ります。さらにいえば、私が想像するに、お互いの人間観察眼を持ち寄りつつ、その場の雰囲気を絶妙に「繊細に感じ合う」ことによって会話が延々と成立しているのでしょう。それは、いわば女性の能力の発露の一形態ともいえるかもしれません。
そのような女性本来の能力を、さらに高め、深め、「もてなし」という「総合マネジメント」に生かしていくことが求められてきたといえます。地域生活でも、その能力を生かして相手の立場、相手の心に応じて、それを指導したり教育したりする。共同体の一人ひとりに目を配り、導き、それぞれの心を安定させるのです。
能力がこのレベルにまで高まったとき、その能力は、「心の深さ」として表されるべき域に達しているといえましょう。
心が深いか浅いかは、直接には見ることはできません。直接は見えませんが、じつはわかるのです。なぜかというと、心の深さは「表現の美しさ」で表されるからです。これまでの回で「履き物をそろえる」話をしましたが、それと同じです。心の深さが表現されていると、そこには必ず「美しさ」が表れる。「心の深い人は、美しい」のです。
江戸時代、貝原益軒という儒学者が書いた『和俗童子訓』を基にして、『女大学』という書物が刊行されています。いまでは反動的な「女性差別の書」として非常に有名なものですが、そこには次のように書かれています。
──女は容(かたち)よりも、心の勝れるを善とすべし。心緒無美女(こころばえよからぬおんな)は、心騒がしく、眼恐敷(まなこおそろしく)見出して人を怒り、言葉あららかに物云(ものいい)さがなく、口ききて人に先立ち、人を恨み嫉み、我が身に誇り、人にそしり笑はれ、人に勝貌(まさりがお)なるは、みな女の道に違へるなり。──
ここで「心の勝れる」は、男によく従って心が優れている、という意味です。
「見目かたちよりも心だ」という言い方はよくされます。しかし、この文章は文字面通りに素直に受け取れない感じがします。むしろ、女性の女性らしさ、女性の美点を無理に包み隠そうとして、逆に倒錯した表現になっているように思われてならないのです。
そもそも『論語』はじめ儒教のテキストには、女性に対する蔑視的な表現が散見されます。いちばん有名なのは、「女子と小人は養い難し」(『論語』「陽貨」第17)という言葉でしょうか。
しかし、これに対しては、明治から昭和初期まで農学者、教育者、国際政治家として活躍した新渡戸稲造が、いかに多くの男たちが女性に惑わされてきたかという男のバカさ加減を白状しているようなものだ、と率直な意見を漏らしています(『自警』)。私もまったくそう思います。
だいたい、美しさにおいて男性は女性に勝てるはずがないのです。だからこそ男性は、女性に勝とうと思ったら、「容(かたち)よりも、心の勝れるを善とすべし」と書くしかない。ところが、そんなことをいいながら、これまで男が、見目麗しい女性に心を動かされなかったことなど、ほとんどなかったに違いないのです。また、女性の深い心、しぐさ、ちょっとした言葉に、男性は魅了されてきたのです。
たとえ表向きはこの『女大学』のようなことをいっていたとしても、その実、古来、男性は、女性が優れていることを褒めるときには、表現、見た目も含めて、基本的に「美しい」という言い方をしてきました。感情、心の深さ、豊かさは美的表現によってのみ表されるのですから、この「美しい」という褒め方は、ある意味では、「女性特有の能力、役割、価値」をそのまま最大限に認める言葉でもあるわけです。
ついでに申し上げますと、昔からさまざまなかたちで伝えられている、一見女性に対して差別的な迷信にも、よく調べてみると、もともとはまったく逆の意味であったものが多く存在します。その代表的なものに、女性をケガレと見るタブーがあります。
これまた柳田国男の指摘を引きますと、たとえば女性が砥石をまたぐと砥石が割れるとか、釣竿をまたぐと釣竿が折れるといった俗信は、もともと女性には、男性の腕力でなしとげるようなことを、不思議な力でたやすく成し遂げてしまうという畏怖の信仰に由来するのだといいます(『妹の力』)。本来は女性の力への畏怖と尊敬であったものが、信仰が忘れられるとともに、「きたない」とか「ケガレる」といった差別的俗信に変わってしまったのだというのです。
そもそも、ケガレということ自体が、もともとはただ価値的にマイナスのものを意味していたわけではないようです。ケガレとは、祭りの実行に支障をきたすとされる事物や行為を指す言葉で、神を祀る儀礼の世界では、古来さまざまなケガレが並べ挙げられてきました。平安時代の法令である『延喜式』にも、祭りを行なう者が触れてはならない、あるいはしてはならないものとしてのケガレが列挙されています。そのなかには、死とか動物の死体など、いかにもマイナス的なものと並んで、出産や妊娠といった、それ自体はおめでたいプラスのものも並べられています。
女性がケガレているとする観念は、こうしたケガレの項目と関連しているのですが、なぜ出産や妊娠といった良いことが、祭りに支障をきたすと考えられたのでしょうか。
それはおそらく、こういうことだろうと思われます。祭りとは、神様の力(自然の威力といってもよいでしょう)を引き出すことによって、人々の暮らしを豊かにすることを目的としています。しかし、自然の威力とはとてつもなく強大なものですから、それが無制限に発揮されれば、人間の生活は、豊かになるどころか、かえって破壊されてしまうでしょう。
たとえば、雨がまったく降らないのは困りますが、集中豪雨のような雨がのべつ降り続いたら、それこそ人間は生活できません。祭りは、自然の力を引き出すのですが、しかし生(なま)の自然がパワー全開になることは避けなければならないのです。そして、死とか出産は、いずれもあまりに生々しい自然の力を感じさせるものなので、神様に触れさせるのを避けねばならないと昔の人は考えたのだろうと思われます。
自然の力は、それ自体では善でも悪でもないのですが、過剰であれば災いとなります。自然の力の過剰さをイメージさせるようなものを、人々はケガレと呼んで祭りの場から遠ざけたのだと考えられるのです。
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