政策総合研究部研究員 前田宏子
温家宝首相が1月末から2月初めにかけて、スイス、スペイン、ドイツ、イギリス、EU本部を訪問した。温首相がダボス会議で講演を行ったことや、イギリスのケンブリッジ大学での講演中に聴衆の一人から靴を投げつけられたことは、日本のメディアでも報じられたので、知っている人も多いだろう。
もともと昨年12月に、EUと中国の首脳会談は予定されていたが、同時期にダライ・ラマ14世がEUを訪問して各国首脳と会談を行うことに中国が反発、会談は延期された。今回の訪欧は、中国とEUの関係改善が目的であったが(ただし、チベット問題で特に関係の悪化しているフランスは訪問先に含まれず)、人権問題で中国は最後に面子を傷つけられる形となってしまった。中国外交にとって、人権問題は抜けない棘のようなものである。
ただし、政府レベルでは、各国は中国との経済関係を重視し、関係強化に力を入れている。ケンブリッジ大学の講演のあと、イギリス政府は直ちに中国政府に謝罪し、靴を投げた人物を法に則って処罰する旨を通知した。イギリス政府は温首相の訪英に先がけて、初めて対中戦略ペーパー(China Strategy Paper)を発表し、中国重視の姿勢を示していたところであった。
『イギリスと中国:関与の枠組み』と名づけられたこのペーパーには、今後4年間のイギリスの対中政策に関する指針が示されている。想定している期間・内容を見ると、戦略ペーパーというよりは、ブラウン政権の対中政策方針といったほうが相応しい気がするが、ともかく初めての対中戦略ペーパーである。内容は、イギリス外交にとって、中国との関係が今後数年の最優先事項の一つであり、中英の間に意見の相違はあっても、対立ではなく協力を基調として対話を進めていくと述べている。「中国の経済発展からイギリスが利益を獲得するために」、「中国が責任ある大国(responsible global player)となるのを促進するために」、「中国の持続可能な発展、近代化、国内改革を促すために」という三つの柱から、それぞれ政策が掲げられているが、実際にイギリス政府がもっとも重視しているのは、一つ目の経済的利益の獲得なのは明らかである。
全体の考え方は、アメリカの「責任ある大国(responsible stakeholder)」論と共通しており、日本の立場から見ても、この戦略ペーパーの方針や政策に反対すべき点はない。ただ、中国の将来に対する極めて楽観的な態度と、中国の国内問題への関心の低さに(人権問題については穏当な表現ながら改善の要求がされているが)、ヨーロッパから見る中国と、我々が見る中国は異なるのだと再認識させられる。
日本は、中国社会の安定や環境問題が、自国の安全や利益に直結するため、中国の国内問題にも大きな関心を払っている。また、日中の歴史的関係や人的交流から、中国の人々の発展を助けたいと考える人も多い。感情的な摩擦が生じやすくもなるが、中国にとって日本は自国の発展を真面目に助けようとしてくれる頼りになる存在である。中国の指導者らが日本との関係を重視する一因も、ここにあるのだろう。日本は、対中政策を考えていく際に、他国の対中観と自国のそれとの相違に注意するとともに、中国にとっての日本の価値をもっと自覚するべきである。
ところで、中英の“協力”を強調し、全体的に前向きなトーンに包まれた戦略ペーパーの中で、ある一文だけ異物が混じっているように目を引いた。それは、「中国が責任ある大国となるため」に掲げられた政策の一つで、「(責任ある大国としての)中国は、国連安保理での主要な案件について、P3との協調を強めるべきである」というものである。国連の常任理事国である米・英・仏・中・露の5カ国をP5(Pはpermanent memberの意)と呼ぶが、P3という言葉を見たのは初めてだったので、一瞬何のことかと考えてしまった。ここでのP3とは、当然、米英仏のことである。この妙に生々しい一文にも、日本とヨーロッパの地政学上の違いを感じたが、対ロ外交を考える上で、これは日本にとって案外意味の大きい一文かもしれない。
(2009年2月12日掲載。*無断転載禁止)
PHP総合研究所Webサイト【http://research.php.co.jp/】(PCサイト)
前田宏子(PHP総合研究所主任研究員)
略歴:1996年大阪大学法学部卒業。1999年京都大学法学研究科修士課程修了。同年、PHP総合研究所入社、中国外交や日本の安全保障政策の研究に従事。2003年中国清華大学へ留学、04〜05年にかけて中国社会科学院当代中国研究所訪問研究員。2005年より慶應義塾大学グローバルセキュリティーセンター客員研究員、07年より同大学現代中国研究センター研究協力者。
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